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札幌高等裁判所 昭和45年(う)22号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

〈前略〉

控訴趣意中事実誤認の主張について

論旨は、原判決は、被告人が本件事故により被害者滝沢キヨ、同百合子の両名に原判示各傷害を負わせた旨認定したが、右両名が本件事故により受傷した事実自体が疑問であり、かりに右受傷の事実があつたとしても、右は、本件事故との間に相当因果関係を欠くのであるから、原判決には、明らかに判決に影響を及ぼすべき事実誤認がある、というのである。

所論に対する判断の前提として、まず、被告人の運転する大型乗合自動車(以下本件バスという、)の本件事故当時の速度に関する原判決の認定の当否につき按ずるに、(なお、所論も、右主張の中で、当時の本件バスの速度が時速五キロメートルないし一〇キロメートルであつた旨、この点につき原判決の事実誤認を指摘する趣旨ともとれる主張をしている。)原判決挙示の証拠とくに原審証人菊地キエの原審公判廷における供述(以下、菊地証言という)および鑑定人滝口松良の鑑定書および同人の原審公判廷における供述(以下、両者を併せて滝口鑑定という)によれば、当時の本件バスの速度を時速約一〇キロメートルとした原判決の認定は、あながちこれを首肯できないことはない。しかしながら、右バスの当時の速度に関しては、右各証拠のほか、捜査当時より一貫して時速五キロメートルまたはそれ以下であつたとする被告人の供述(検察官および司法警察員に対する各供述調書および原審公判廷における供述)およびほぼこれに副う趣旨の原審証人金木清(当時の追従車両の運転者)および同高玉清司(事故の目撃者)の原審公判廷における各供述(以下、それぞれ金木証言、高玉証言という)もあり、さらには、原審検証調書第五項および第六項には、「本件バスに大人約二〇人を乗せて被告人が運転し事故現場先アスファルト舗装道路において①時速五キロメートル、②一〇キロメートル、③一五キロメートルの三段階で急ブレーキをかけたところ、スリップ痕の長さは、①の場合、2.35メートル、②の場合3.70メートル、③の場合前輪4.10メートル、後輪3.32メートルであつた。当日の天候は晴ときどきくもりで、路而乾燥であつた。」との趣旨の記載もあつて、この点に、本件事故の際本件バスが現場に残したスリップ痕の長さが1.30メートルであつたこと、右バスが再発進後完全に停止するまでに進行した距離が、わずか5.9メートルであり、したがつて、発進後被告人が急制動の措置をとるまでには、せいぜい三ないし四メートルの距離しか進行していなかつたと認められること等の事実をも併せ総合して考察すれば、前記菊地証言および滝口証言にも拘らず、当時の本件バスの速度が、被告人の供述するように、時速約五キロメートル程度であつたのではないかとの合理的な疑いを容れる余地があると認められる。(なお、原判決が主として依拠した滝口鑑定は、本件バスに備え付けてあつたタコグラフの記載を基礎にしたもので、一応科学的根拠を有するかに見えるが、右鑑定には、原判決の援用する部分のほか、「本件タコグラフでは、時速一三キロメートルか一五キロメートル以下では正確に出ない。J'点では時速五キロメートル位を示しているが、実際は、一五キロメートル以下ということはわかるが、正確な速度はわからない。」とか、「本件タコグラフチャートはスピード記録線が蛇行しているので、解析は参考として報告する。タコグラフの点検、修理等の処理が必要である。」等の部分があつて、必ずしもこれに全幅の信頼を措き難いうらみがある。)そうだとすると、この点の疑問を看過して、当時のバスの速度を時速約一〇キロメートルとした原判決は、この点において事実の認定を誤つたものというのほかない。

そこで、この点を前提として、被害者両名の受傷の有無、および本件事故との因果関係の有無につき、さらに審究する。まず、被害者滝沢キヨについては、一応、原判決の認定の趣旨に副う医師大須賀武夫作成の昭和四三年二月二〇日付滝沢キヨに対する診断書(以下、第二診断書という)があり、これに、証人滝沢キヨの原審公判廷における供述および同人の検察官に対する供述調書(以下、両者を併せて滝沢証言という)等を総合すれば、同人が本件事故により原判示傷害を負つたとの事実を認めないわけではない。しかしながら、右第二診断書にしても、その内容は、「病名、右上腕打撲、右肩関節打撲、上記の疾病は交通事故に基づくものと考えられるが、頭初より通院加療、初診当時右撓骨神経不全麻痺あるも約二〇日間の治療にて軽快……」というものであつて、右記載それ自体からは、約二〇日間の治療で軽快したのが、「右撓骨神経不全麻痺」の傷害であるのか、「右肩上腕打撲、右肩関節打撲」の傷害であるのか、必ずしも明らかでないのであるが、いまこの点をしばらく措くとしても、同女の受傷の事実については、なおつぎのような疑問の余地があつて、果たして同女が、本件事故により、真実右診断書に記載されたような、刑法上の傷害にあたることの明らかな傷害を負つたとの点については、合理的な疑いをさしはさむ余地のないまでの心証を惹起するに到らない。すなわち、1本件事故の翌日同女を診察した医師大須賀武夫の同女に対する昭和四二年九月二日付診断書(以下、第一診断書という)の記載は、「病名、右上腕打撲兼右撓骨神経不全麻痺、上記の疾病により向後一カ月間加療を要す」というのであつて、前記第二診断書にある右肩関節打撲の病名の記載がなく、他方、本件公訴事実に主張されていない撓骨神経不全麻痺の記載がある。また、原審証人進藤恒彦の原審公判廷における供述(以下、進藤証言という)によれば、右第一診断書の作成された二日後である同年九月四日に同女を診察した帯広協会病院医師佐々木偉夫作成のカルテには、右二通の診断書に共通する「右上腕打撲」および「右撓骨神経不全麻痺」の病名の記載はおろか、第二診断書の「右肩関節打撲」なる記載に相当するものもなく、たんに、「九月一日バスに乗つて前胸部を打撲した。一般状態良好。左鎖骨部軽度圧あり……」との記載があるのみであること、さらに、同月六日に同女を診察した同病院医師舟木昭蔵作成のカルテには、「胸部痛。食欲正常、右第二肋軟骨圧痛」という、これまた右各診断書およびカルテともくいちがう所見の記載されている事実が認められる。このように、本件においては、被害者キヨの受傷の事実を立証すべきもつとも重要な証拠である医師の診断書およびカルテの記載が、診察にあたる医師および診察の日時を異にするごとに大きくくいちがつているのであるが、事件後五カ月以上後に作成された前記第二診断書の記載に、他の診断書およびカルテの記載よりもとくに高度の信ぴよう性を認めるに足りる合理的な根拠は、記録上ついにこれを見出し難いのみならず、主として患者の主訴に基づいて作成されたはずの右各診断書およびカルテの所見が、このように区々に分れることそれ自体、きわめて不自然なことであつて、同女の供述の信ぴよう性を強く疑わせるものである。2被害者キヨは、昭和四一、二年ころにも交通事故に遭つた経験を有するが、その際も医師に対する不定愁訴が多かつたものであり、当時同女の診察にあたつた帯広厚生病院精神神経科医師五十嵐邦彦は、前記大須賀に対し、「賠償問題が表面化した後において医師から、外傷と主訴の間には直接関係がない旨言われるや、大げさに歩行障害を訴えたが、医師や看護婦が見ていないところでは、正常に歩行している状態であつて、今回もこれと同様と思われるので、外傷性神経症というより、外傷性ヒステリーと考える」旨の意見を具申しているほどであつて、同女が自己の受傷の程度につき医師に対し誇張した表現をしている疑いは、右の点のみからでも少なくないと認められる。

つぎに滝沢百合子の受傷の部位、程度については、ほぼ原判決の認定の趣旨に副う前記大須賀作成の昭和四三年二月二〇日付同女に対する診断書(以下、第二診断書という)が存在し、右は、同医師作成の同四二年九月二日付同女に対する診断書(以下、第一診断書という)ともとくに矛盾しないこと、同女が受傷後はき気をもよおし、また、かなり長期間大須賀医院に入院していたこと等の事実が明らかであつて、これによれば、本件事故により、同女が原判示傷害を負つた事実を認め得ないわけではない。しかし、他方、右第一診断書の作成された二日後である同月四日に同女を診察した前記医師佐々木偉夫作成のカルテには、「病名頭部外傷、九月一日バスに乗つていて急ブレーキがかかつた時右側顔面を打撲した。吐気プラス。現象一般状態良好。瞳孔やや散大。対光反射敏。全反射ほとんど正常。超音波検査では変異がない。レントゲン像異常なし」との記載があつて(前記進藤証言)、前記各診断書の所見とは、相当大幅な相違が見られるのみならず、前記進藤は、「皹裂骨折の点に関する大須賀の診断が誤つているとまでは言えないが、同じレントゲン写真を見ても、頭部骨折の程度の軽いものは、細い線が写真に写るだけで、これを皹裂骨折と見るか見ないかは見る人によつて違つてくる。脳挫傷の点は相当重傷なので見方によつて異ることはない。」旨、前記大須賀作成の診断書の内容に疑問を投げかける趣旨ともとれる供述をしていること、同女もまた、キヨ同様医師に対する不定愁訴の多かつた者であり精神安定剤の投与も行なわれていること(前記第二診断書)、当時、本件バスには約二〇名の乗客がおり、急停止による反動のため、転倒しあるいは手すりや椅子に衝突したのは、右百合子一人ではなかつたところ、他の者は、いずれも、刑法上の傷害といえるかどうか疑問の残る程度の比較的軽微な打撲に終つており、また、当時のバスの速度が、前記のとおり約五キロメートル程度と認められることからしても、同女だけが前記診断書記載の重傷を負つたとの点に、やや不自然の感を免れ難いこと、さらには、同女の母親であるキヨの供述については、前記のとおり、疑問の点が多々存すること等の事実を総合して考察すれば、本件事故と相当因果関係の範囲内に立つ同女の傷害として合理的に認定できる限度は、結局、進藤証言によつても、確実にこれを肯定できる「加療二週間程度の頭部打撲傷・頭部外傷」の程度に止まるものというべく、その余の受傷の事実およびその事故との相当因果関係の存在については、なお合理的な疑を容れる余地があると解される。

さればこれと異り、本件事故により右両名が原判示各傷害を負つたとの事実を認めた原判決は、この点において、明らかに判決に影響を及ぼすべき事実誤認を冒したものというのほかなく、とうてい破棄を免れない。論旨は理由がある。よつてその余の控訴趣意に対する判断を省略し、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書により、当審において、ただちにつぎのとおり自判する。

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、北海道拓殖バス株式会社の大型乗合自動車の運転業務に従事しているものであるが、昭和四二年九月一日午後四時一〇分ごろ、乗客二〇名位が乗車している前記自動車(本件バス)を運転し、北海道河東郡音更町字下音更基線二八番地先の交通整理の行なわれていない十字路交差点を南方から北方に向け時速約一〇キロメートルないし一五キロメートルで直進しようとしたが、同交差点直前に横断歩道(指導線)が設けられており横断者があることが予想され、当時前記横断歩道手前の道路左端部に同一方向に向けて駐車している普通貨物自動車があつて、同車の前方の見とおしがきかなかつたから、被告人としては、右横断歩道直前で一時停止し、横断歩道上の交通の安全を確認した後進行して、みだりに急制動をかけて乗客に危害を及ぼすことのない、よう安全に運転すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然前記同一速度で進行した過失により、前記駐車中の車両のかげから右横断歩道を左方から右方へ横断走行してくる渡辺真澄(五歳)を直前で認め、これとの衝突を回避するため急制動の措置をとり、その反動で、自車の乗客である滝沢キヨ、同百合子の各身体を、それぞれ座席前部の鉄製手すりおよび右手すりの支柱に激突させて、キヨに対し加療二〇日間を要する右上腕打撲兼右肩関節打撲の、百合子に対し加療五二日間を要する右側頭骨皹裂骨折兼脳挫傷の各傷害を与えたものである。」というのである。

ところで、右公訴事実中、滝沢キヨに関する部分につき、犯罪の証明がないと解すべきことは、前段に説示したところから明らかであるから、以下、同百合子に対する関係において被告人の刑責を認め得るか否かをさらに審究するに、前段の説示に加え、原判決挙示の各証拠ならびに当審事実調の結果を総合して考究すると、本件事故当時の状況に関し、おおむねつぎの事実を認めることができる。

1  本件事故現場は、北海道河東郡音更町字下音更基線二八番地先の南北に通じる道路(車道の幅九メートル、歩道の幅各三、五二メートル)と東西に通じる道路が直角に交る交通整理の行なわれていない交差点入口の南側にある指専線のみによる横断歩道上であること。

2  被告人は、公訴事実記載の日時ころ、乗客二〇名位を乗せた本件バスを運転して南方から北方に向けて進行し右交差点の前記横断歩道にさしかかつたものであるが、被告人のその直前における行動は、右歩道の手前二九、五メートルの地点にあるバス停留所で乗客を乗降させた後発進し、約一七メートル進行した地点でさらに乗客一名を乗車させるためいつたん停止したが、その際のバスの先頭の位置は、右横断歩道の南側端から約四メートル手前の地点であつたこと。

3  当時、右横断歩道南側端の手前約〇、五〇メートルの地点で本件バスの進路車道左側には、荷物(ビール)を高く積んだ普通貨物自動車(長さ四、二メートル、幅一、六五メートル、高さ一、八メートル、以下トラックという)が、その積み下ろしのため駐車しており、そのため右横断歩道左側(西側)部分の一部の見とおしが悪かつたこと。

4  被告人は、前記停止地点から時速約五キロメートルの速度で再発進した直後、右横断歩道上を本件バスの進路前方の左方から右方へ横断すべく、突如右トラックのかげから道路中央へ走り出てきた子供(渡辺真澄、当時五歳)を認め、ただちに急制動の措置をとつたこと。

5  その結果、本件バスは一、三〇メートルのスリップ痕を残して、横断歩道の南側端から約一、五〇メートル入つた地点の右横断歩道上で停止し、右子供は勢あまつて停止直後の右バスの左側前部辺に当つて転倒したが、けがはなかつたこと。

6  しかし、右急制動による反動のため、当時のバスの乗客滝沢キヨおよび同百合子の各身体を、それぞれ座席前部の鉄製手すりおよび右手すりの支柱に衝突させ、その結果、右百合子に対し、前記認定のように加療二週間を要する頭部打撲傷および頭部外傷の傷害を負わせたこと。

そこで、右に認定した事実関係のもとで、被告人に、公訴事実記載のとおり、「右横断歩道直前で一時停止し、横断歩道上の交通の安全を確認した後進行」すべき法律上の注意義務があるかどうかにつき検討する。思うに、バスの運転者は、他の一般の自動車の運転者と同様、他の車両および歩行者等との衝突の危険を未然に回避し、第三者の生命身体に危害を加えることのないよう運転上深甚の注意を払うべきことは、もとより当然であるが、なおそのほかに、一時に多数の乗客を運搬し、しかもその座席の位置が比較的高く、急停止等の衝撃を乗客が受け易いという、その任務および車体の構造等にかんがみ、不用意な運転方法(たとえば、みだりに急発進し、または急停止する等)は厳にこれを慎しみ、その衝撃により乗客の生命、身体に万一の危害を及ぼすことのないよう、慎重に運転すべき業務上の注意義務を負担するのである。したがつて、もし急停止によるのでなければ車両あるいは歩行者などとの衝突の危険を回避できないような事態がある程度予測されるような場合においては、予め一時停止して、右危険のないことを確認した後進行するとか、あるいは、適宜に減速しまたは徐行し、警音器を吹鳴する等必要な措置を講じ、もつて急停止のための衝撃による被害を乗客が蒙らないように運転をなすべき業務上の注意義務を有するものと認められる。しかして、右のような危険な事態を未然に回避すべくバスの運転者に要求される注意義務の限度が、右の「一時停止」「減速」「徐行」「警音器吹鳴」等のいずれであるべきかは、右危険な事態の出現の予測される蓋然性の大小等に応じ、結局は、社会通念により具体的に決するほかないのであるが、その場合においても、自動車運転の具有する高速度交通機関としての社会的効用と、右運転の包蔵する危険との調和を図り、右危険の適正・公平な分配を図る必要があるのであつて、いやしくも、右効用および危険の一方のみを過度に強調し、交通生活上生ずる危険を当事者の一方のみに負担させることのないよう慎重に配慮する必要がある。ところで、本件につきこれを見るに、本件事故現場である前記横断歩道は、市街地の交差点外側に接着し、しかもその直前に駐車していたトラックのため、いわゆる死角となつて、本件バスの運転者の被告人から横断歩道の西側(本件バスの進路左側)部分が歩道側端から道路中央寄りに一、六五メートル位の面は見えない状態であつたから、右トラックの陰から突如として横断者が出てくるのを発見し、これとの衝突を回避するため、急停止の措置を講ずることを余儀なくされる事態が、絶対に予見され得ないわけではなく、もし右のような事態が発生して急停止の措置を講じた場合においても、その急停止の衝撃によりバスの乗客に傷害を与えることのない程度のきわめて低速に運転進行することが必ずしも不可能とまでは認められないが、他方右トラックは、前記のように当時、ビールの積み下ろしのため、車体を歩道端に寄せて駐車中であつたことが明らかであるから、横断歩道直前に、停車中の車両が存在している場合等とは異り、それだけでは、横断者の出現を強く危くさせるほどの事情であるとは認め難いのであつて、果たして然らば、他に無謀な横断者の存在を強く推認させる特段の事情(たとえば、幼稚園や小学校が近く、登下校時の園児児童の姿を多数見かける等)の認められない本件においては、バスの運転者が前記横断歩道直前において一時停止して、万一の危険に対処しなければならない法的義務を負担するとまではにわかに断じ難く、むしろただちに停止できるような速度にまで減速し(あるいはさらに、予め警音器を吹鳴して歩行者に注意を喚起し)、急停止により乗客に与える衝撃をできるだけ緩和する措置を講じて進行すれば足りると解するのが相当である。そうすると、前記認定の如く当時、時速約五キロメートルのただちに停止できる速度で右横断歩道内に進入した被告人の本件所為は、少なくとも対乗客の関係では、一応社会通念上相当な注意義務を尽くしたものと解し得るのであつて、それ以上に、右横断歩道直前において、一時停止したうえ交通の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務の存在することを前提とした本件公訴事実は、その前提を欠くものといわなければならない。なお、この点につき、原判決は、昭和四二年改正後の道路交通法三八条二項の存在をも一つの論拠として、被告人の右一時停止義務の存在を肯定しているので、この点につき一言する。まず、改正後の同法三八条二項は、横断歩道上の歩行者の保護の徹底を図るため、同年法律第一二六号(同年一一月一日施行)により新設されたものであつて、本件の発生した昭和四二年九月一日当時は、右のような横断歩道直前における一時停止義務は、対歩行者の関係においても、未だ法的義務にまで高められていなかつたことが明らかであるから、これをもつて、同条の新設される以前の、本件における被告人の一時停止義務を根拠づけることの失当であることは、言うをまたないところであるが、いまこの点をしばらく措くとしても、そもそも右規定の新設された立法の趣旨、目的は、従前、横断歩道の直前で他の車両等が停止している場合に、その側方を通過して前方へ出たため前車のかげになつていた歩行者の発見がおくれ、横断歩道上で事故を惹起する車両が少なくなかつた道路交通の実情にかんがみ、とくに歩行者の保護を徹底する趣旨で設けられたものである。すなわち、右規定は、本来駐停車禁止区域である横断歩道直前において車両等が停止しているのは、多くの場合、歩行者の通行を妨げないように一時停止しているものであり、また、具体的場合に、当該車両等が歩行者の横断待ちのため一時停止しているのかそうでないかが、必ずしもその外観のみからは、一見して明らかでないことが多い等の理由から、いやしくも横断歩道の直前に停止中の車両等が存在する場合にその側方を通過しようとする者に対しては、それが横断中の歩行者の存在を強く推測させる一時停止中の場合であると、かかる歩行者の存在の高度の蓋然性と直接結びつかない駐車中の場合であるとを問わず、いずれの場合にも一律に、横断歩道の直前における一時停止の義務を課し、歩行者の保護のよりいつそうの強化を図つたものと解されるのである。(浅野信二郎・警察研究三八巻一〇号三四頁。なお弁護人の論旨は、右「停止」中の車両の中には「駐車」中の車両が含まれないとの趣旨の主張をしているが、法二条一八号、一九号によれば、「停止」とは「駐車」と「停車」の双方を含む概念であることが明らかであるから、右の主張にはにわかに賛同できない。)そうだとすると、右のような歩行者保護のための規定の存在と、本件のように横断歩道の直前で明らかに違法に駐車している車両の側方を通過する場合のバスの運転者の乗客に対するさきに述べたような注意義務の限度とは、何ら直接の関連はないと解されるのであつて、右注意義務の限度は、道路交通法上の右のような規定の解釈を離れて、さきに述べたような交通生活上の適正・公平な責任分配の見地から、合理的に決せられなければならないものである。そうすると、本件公訴事実は、滝沢キヨに対する関係においてのみならず、同百合子に対する関係においても、結局、犯罪の証明がないことに帰着する。

よつて、本件公訴事実は、すべて犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条後段により、無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。(中西孝 小川正澄 木谷明)

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